自己愛性人格障害の闇。

自己愛性人格障害の闇について紐解いていくブログ

自己愛性人格障害はなぜ成績優秀にこだわるのか

自己愛性人格障害は、

ただ単にストレス耐性が低いのが原因とか、

そういうことではありません。

 

自己愛性人格障害は、

生育環境にて自己が何らかの理由で

「成熟しなかった、確立しなかったから」、

その成熟しないままでも生きていけるように

「モラハラ思考」だけを頼りにして

生き延びていかなくてはならなくなった

状態です。

 

自分は自己が成熟していない、

不確かな存在であるために、

 

その不確かであるという事実さえ

耐えられません。

 

だからその事実を覆い隠すため、

「自己は確立している」ように

みせなくてはなりません。

 

しかし責任がとれない、

ストレスには耐えられないという

事実は変えられないので、

 

そもそもそんな責任はない、

自分は責任はとらなくてもいい、

自分はストレスに弱くなんかない、

じゃあ誰が責任をとらなくてはならない?

誰がストレスをかけさせようとしている?

 

あいつだ!なぜなら○○だから~

というモラハラ思考がしっかり

働きます。

 

すべて、

「自己が成熟しなかった」から

「そのままだと自分が生きていけない」から

「自己が成熟していないどころか

成熟しきっているように思い込む」

わけです。

 

ところが成熟しきっていないのにも

関わらず、

「成熟しきった自分」を演出したいので、

 

「友達の数」とか

「関わっている人間の質」とか

「学歴」とか

「成績」とか

「仕事の能力」とか、

 

そういうことばかりにこだわり、

誇張するように

なります。

 

成熟しきっていない自己が作り出す

「成熟した人間」というのは、

「とにかく成績がよく

友達の数が多く

コミュニケーション能力が高く

高い役職につき

会社のトップにつき…」

というものです。

 

 

「本当に自己が成熟している」のならば、

そんなことにこだわる必要はなくなります。

 

なぜならそんなことにこだわらなくても、

「自分は自分」であるというのが

分かりきっているからです

(勿論各項目で劣等感を

持っている場合は部分的に拘ることはある、

たとえば学歴に劣等感がある場合は

他の部分で代償するなど)。

 

「ここは苦手だが、

それが“自分”だからどうしようもない」とか

「こういうところが欠点だが、

こういう“自分”を治すのも面倒くさいし、

まあいいか」とか、

普通は諦めます。

 

 

「学歴はさして自慢できないけど

他のことで頑張っている自分」とか、

「なりたい仕事に就けなかったけど

挫折しても自分は自分」とか

「友達は多いけど浅くしか付き合えない

自分」とか、

「けどそれが自分だし」

と自分を変えてまでそれを望もうとは

思いませんし、切迫もしません。

 

 

学歴があるようにとにかく見せたいとか

なりたい職業に就けなかったのは

あいつのせいだ!とか

人と深く付き合えないのは周りのやつらの

せいだ!とか、

 

そう思っていても心のどこかで

「でもまぁ、自分の責任だよな」

というのは薄々分かっていたり

するものですが、

 

自己が確立していないと本当にそればかり

望まないといけなくなります。

 

「学歴の高い自分」などはっきりした

ものに固執しないと、

はっきりした自己像がない

自己愛性人格障害者にとっては

死活問題です。

 

 

「自己というものが不確か」なのですから、

「それが“自分”なのだから」の

“自分”というところがそもそも

よくわからないわけです。

 

それが自分なのだから仕方ない、

と割りきれるほど自己というものが

確立していないし

自己というものが感覚として掴めません。

 

人は、自分に自信がなかろうが

なんだろうが、

「自分はこういう人間だから、

自信がない」

と自分のことは感覚としては

よく分かっています。

 

自分は曖昧でどういう人間か

よくわからない!と言っている人でも

「自分は曖昧で、よくわからない」

と認められる時点で、

それはそれなりに自己が確立していて

ストレス耐性が

あるということです。

 

誰しも、自分が何者かだなんて知りませんし

言葉では説明できませんが、

感覚としては確かに自分が存在します。

 

本当に自己が成熟しておらず不確かだと、

「自分はよくわからない曖昧な存在」

ということを考えたり認めたりする

こと自体が強烈なストレスになります。

 

だから、自分の判定として

分かりやすいもの、

「友達が何人いる自分」とか

「成績が優秀な自分」とかに

拘ります。

 

「成績が悪い自分」もはっきりしているように

思えますが、

自己がはっきりしていないから

生きている価値が見いだせない、

だからより確かなものを求めるのに

 

「友達が少ない自分」や

「成績が悪い自分」だと

生きている価値がないのに

変わりはない、と自己愛性人格障害者の

心は判断してしまいます。

 

だから不確かな自分を

確かなものとして思い込みたいのに

「成績優秀な自分」というのは

はっきりしていてかつ

生きている価値がある、

 

だからこそ成績優秀にこだわる、

いい成績がとれないときは

自分の能力ではなく誰かのせい、

テストのせいにする、

という構図が出来上がっていき、

 

さらに「成績優秀な自分」は

生きている価値があり、

優秀でないものは生きている価値がない、

などと極端な考えに発展します。

 

結局は、「成熟していない自己」が

いくら「成熟した理想の自分とはなにか」を

考えようと、

 

それを考えているのが「成熟していない自己」

なので

「エリートこそ正義」というような

答えしか出てこないのはある意味

当然の結果ともいえます。

 

エリートになれなかったら

「能力はあるが自分からそういうコースは

辞退した」

「資質はあるが邪魔された」

 と思い込めばいいだけです。

 

ただエリートになったとしても

「成熟した自分」になれるわけではないので、

「エリートになったのに自己が不確かなまま

」なので自己愛性人格障害自体も

そのままで、

 

ずっと自己を確かにする作業(モラハラ思考)を

続けなくてはならないのです。